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少女「治療完了、目を覚ますよ」−オリジナル小説
86 名前:三毛猫 ◆58jPV91aG. [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:22:37.16 ID:FW+Jr7MZ0
おはようございます。

沢山のコメントやコンタクト、ありがとうございます。

引き続き二話を投稿させて頂きます。


87 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:24:50.13 ID:FW+Jr7MZ0
涙が落ちる。

土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。

降っているのは雨ではない。

赤い。

どろどろした粘性の血液だった。

それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈な
スコールとなって降っているのだ。

足元には血だまり。

コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない。


88 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:25:50.28 ID:FW+Jr7MZ0
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。

壮年男性だろうか。

背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、
ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。

顔は見えない。

ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。

汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、
その男性の目の前に立っていた。


89 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:26:28.70 ID:FW+Jr7MZ0
男性の泣き声以外、
スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。

汀は口を開いて何事かを言おうとした。

しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。

少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。

そしてかすれた声で呟く。

「ダイブ続行不可能。目を覚ますよ」


90 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:27:36.63 ID:FW+Jr7MZ0

★Karte.2 血の雨が降る景色★

「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」

そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、
苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。

「患者の家族は何て言ってる?」

「相変わらず知らず存ぜずだよ」

「そうか……」

圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内裕也が続けた。

「この患者に入れ込むのは分かるが、
少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」


91 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:34:29.49 ID:FW+Jr7MZ0
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」

柔和な顔立ちをした圭介とは違い、
大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、
熊のようないでたちをしていた。

そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側
……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、
車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。

圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。

「これで六回目のダイブ失敗か」

「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」

大河内がフォローするように言う。


92 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:35:13.55 ID:FW+Jr7MZ0
汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、
白髪の壮年男性が眠っていた。

余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。

腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、
頭にはヘルメット型マスク、
そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。

汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。

急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。

「汀!」

呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、
ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。


93 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:35:52.33 ID:FW+Jr7MZ0
「圭介……吐く……」

「分かった。もう少しだけ我慢しろ」

備え付けられているバケツを大河内から受け取り、
圭介は汀の顔の前に持ってきた。

そして背中をさすってやる。

何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、
汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。

しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、
圭介はその口をタオルで拭いた。

「限界か?」


94 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:36:38.57 ID:FW+Jr7MZ0
問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。

「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」

「なら……」

「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」

圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。

彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。

「大河内せんせ!」

嬉しそうに彼女がそう言う。

大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。

そしてその場をくるくると回ってやる。


95 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:41:57.25 ID:FW+Jr7MZ0
「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」

「せんせ、いつ頃来たの?」

「二回目のダイブの途中から見ていたよ」

「私が吐くとこも?」

圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。

大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。

「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」

「本当?」

汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。


96 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:42:32.56 ID:FW+Jr7MZ0
「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」

「ああ。で、患者はもういいのか?」

「どうでもいいよこんなの」

汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。

「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。
一緒に毛糸のカービィやろ」

「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」

「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。
大河内も少しは考えてくれ」

「あ……ああ、すまない」

圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、
苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。


97 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:43:17.33 ID:FW+Jr7MZ0
「高畑、それじゃ今日は……」

「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。
これ以上のダイブは無理だな」

「せんせ、手つなご」

汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。

大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。

「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、
患者の移動をさせてくれ」

圭介は一つため息をついて、
ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。

「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」


98 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:43:58.61 ID:FW+Jr7MZ0
圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。

汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、
車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。

「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」

「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」

「えへへ」

「お寿司でも頼もうか」

「本当? 私も食べる!」

二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。

そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。

いつも柔和な表情は、極めて暗かった。


99 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:44:42.17 ID:FW+Jr7MZ0


大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、
彼とゲームに熱中していた。

それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。

「汀ちゃんは上手いなぁ」

「ここを、こう飛び越えるんだよ」

「こうか? それっ!」

子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、
圭介は手元にあった資料に目を落とした。

先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。

しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、
汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。


100 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:45:19.14 ID:FW+Jr7MZ0
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。

「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」

圭介が資料から目を離さずに言う。

汀はむすっとして彼を見た。

「全然疲れてないもん」

「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。
少し休憩といこうか」

大河内がそう言って、寿司を口に入れる。

「汀ちゃんも食べるかい?」

「せんせが食べさせてくれるなら食べる」


101 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:47:18.87 ID:FW+Jr7MZ0
「どれがいい?」

「うに」

「やめておけよ」

圭介が資料をめくりながら言う。

「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」

「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」

「はいはい」

肩をすくめた圭介の前で、
大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。

「おいしい」

やつれた少女は笑った。


102 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:48:01.85 ID:FW+Jr7MZ0
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。

「ほらな」

慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。

そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。

その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。

「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」

「全く……人の話を聞かないから」

呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、
汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。

「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。
俺は診察室にいるから」


103 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:48:30.40 ID:FW+Jr7MZ0
バタン、と音を立ててドアが閉まる。

少し沈黙した後、汀はため息をついた。

「……圭介、怒ってる」

そう呟いた彼女に、
大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。

「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」

「違うの。私には分かるの」

汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。

「私が、役に立たないから……」


104 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:49:07.50 ID:FW+Jr7MZ0
大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。

そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。

強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。

体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。

「汀ちゃん!」

汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。

血の雨。

立ち尽くす男。

泣き声。


105 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:49:38.15 ID:FW+Jr7MZ0
血だまり。

コンクリートの地面。

先の見えないスコール。

土砂降り。

――あなたは何をなくしたの?

汀はそう問いかけた。

答えは返ってこなかった。

何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。

何をなくして、どうして泣いているのか。

しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。


106 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:50:07.07 ID:FW+Jr7MZ0
――何をなくしたの!

汀は叫んだ。

何度も、何度も。

掴みかかって、男を揺さぶる。

そこで汀はハッとした。

聞こえるのは、泣き声。

しかし男の顔は。

ただ、笑っていた。


107 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:50:42.55 ID:FW+Jr7MZ0
「…………っ」

頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。

頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。

「高畑! 高畑、来てくれ!」

大河内が大声を上げる。

そこで、汀の意識はブラックアウトした。


108 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:51:53.65 ID:FW+Jr7MZ0


「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」

診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。

圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。

「気に病むなよ。いつものことだ」

「…………」

「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。
多少はしゃいでゲロ吐いたって、
あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」

「だろうが……口が悪いぞ、高畑」


109 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:52:30.62 ID:FW+Jr7MZ0
「そうか?」

顔を上げずに、彼は続けた。

「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」

資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。

「あの患者の経歴だ」

「どこから取り寄せた?」

「世の中には『親切な人』が沢山いてね」

柔和な表情で彼は腕を組んだ。

大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。


110 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:53:07.84 ID:FW+Jr7MZ0
「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」

「…………」

圭介は少し沈黙してから、言った。

「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」

「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。
この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」

「でも、汀は特A級だ」

「天才であることは認めるよ。
しかし、適材適所という考え方もある。
これは、赤十字の担当に回したほうがいい」

「大河内」

彼の言葉を遮り、圭介は言った。


111 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:54:00.31 ID:FW+Jr7MZ0
「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、
お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。
俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」

問いかけられ、大河内が口をつぐむ。

圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。

「治すさ。汀は」

「…………」

「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」

「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。
汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」

「無理でもやるんだよ」

いつになく強固な声で、圭介は言った。

「それが、あの子の仕事だ」


112 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:55:44.96 ID:FW+Jr7MZ0


汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。

汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、
息をついてベッドに体をうずめる。

「おはよう」

「おはよう、良く眠れたか?」

圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。

「よく寝れなかった」

「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」


113 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:56:25.35 ID:FW+Jr7MZ0
「加減?」

「…………」

圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。

そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。

「いや、いいんだ。別に」

「気になるよ。何かあったの?」

「大河内が来ただけだ」

「せんせが来たの?」

汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。

「ど、どうして起こしてくれなかったの?」


114 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:56:54.71 ID:FW+Jr7MZ0
どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。

「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。
どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」

「せんせ、ここに入ってきたの?」

「ああ」

「恥ずかしい……私、こんな……」

毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。

彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。

「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」

「せんせが気にしなくても、私が気にするの」


115 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:57:33.48 ID:FW+Jr7MZ0
まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、
いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。

否、覚えていない風、なのではない。

覚えていないのだ。

圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、
隣の診察室に歩いていった。

汀が胸を押さえながら、俯く。

大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。

圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。

「これは覚えてるか?」


116 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:58:26.32 ID:FW+Jr7MZ0
問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。

そして首を傾げる。

「誰?」

「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」

興味がなさそうに資料をめくり、
しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。

「ふーん」

と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。

「それで、いつダイブするの?」

「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」


117 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:58:54.16 ID:FW+Jr7MZ0
「いいよ。圭介がそう言うなら」

にっこりと笑って、汀は続けた。

「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」

問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。

しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。

「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」


118 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:59:24.32 ID:FW+Jr7MZ0


「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」

赤十字病院の一室で大河内がそう言う。

彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。

「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。
お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」

資料に目を通しながら圭介が言う。

大河内は反論しようと口を開けたが、
言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。

「クスリが強すぎる」

「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」


119 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 07:59:59.61 ID:FW+Jr7MZ0
含みを込めてそう言うと、
圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。

数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、
前に横たえられた壮年男性の姿が見える。

マジックミラーのようになっていて、
向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。

汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、
車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。

『準備完了。これからダイブするよ』

壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。

圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、
そのマイクに向けて口を開いた。


120 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 08:00:36.20 ID:FW+Jr7MZ0
「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。
重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。
普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」

『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』

「時間は十五分でいいな?」

『うん』

頷いて、汀は呟いた。

『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』

隣で大河内が軽く唾を飲む。

圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。


121 名前:三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga] 投稿日:2012/10/17(水) 08:01:25.12 ID:FW+Jr7MZ0
「集中しろ」

『分かってるよ』

「これが終わったら、考えてやってもいい」

『本当?』

「ああ、本当だ」

『約束だよ』

「ああ、約束だ」

『うん、私頑張る。頑張るよ』

何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。

「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」



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